画材屋に行きました。
新しい下地を作るのと、新たな支持体を求めて。
大きな画面です。号数で言うと20号くらい。
そしてガッシュを買いました。新しい絵具で描き始めようと思います。
個展がはじまってから、アイデアノートには何も描けずにいました。
何も思い浮かばず描けなかったです。無理やりなら描けるけど、それは全て嘘だから、嘘で埋まるページは苦しみでしかない。
そんなときは目の前のものをスケッチする。アイデアは一旦置いといて、描く対象はいつでも目の前にあるんだという安心感は、胸に手のひらをあててじんわり伝わるぬくもりのようです。
久しぶりにイーゼルに立てかけて描いたので右腕が疲れました。今自分に起きている現象のひとつひとつを感じられました。
先日、ものすごい気付きに気付かせてもらいました。気付きに導いてもらったのです。
身近な人たちや世間が発する、ありとあらゆるそれらしい言葉、なんとなく自分もそう感じているような共感する言葉、真実のように思える言葉。
たくさんたくさん溢れているから、その中で自分に近しい言葉に出会うと、かりそめの安心が得られ、それがあたかも自分が感じている=自分もまったく同じことを感じていた=自分の気持ち、としてすり替えが起こり、錯覚してしまう。あくまでも他者の言葉や実感なのに。そうすると、頭では、錯覚が自分の本当だと思ってしまう。当然、頭と心が一致しません。心が苦しいと悲鳴をあげています。身体が胸のあたりがおかしい。なぜこんなにも涙がこぼれるのだろう。
涙は心の反応であるのだけれど、それより先に、身体の反応だったのでした。
自分という燃ゆるいのちが、もっとも先に反応をしめすのは身体。この私の身体。
なのに頭で錯覚していたことを、自分の気持ち、自分の本当なのだと思い込んで、従い、行動していた。
それは自分ではなく、ただの世間の最大公約数だった。
このことについて、今はまだ、着地させられません。ゆっくり、見つめて、溢れたら、また書きたい。
素焼きの鉢4つ。手を動かしたい。色を見たい。描いていきます。