高校時代の恩師と会いました。
近作を写真で見せてもらいました。
貝殻や布などコラージュされた平面作品。
以前の画面の強弱やリズムは感じず、隙のない均等な配置に意識がいきました。
余白がないんやな、と思ったことを言いました。
すかさずバーバラは言いました。
「そうや、いい作品は余白を作らない。」
たまたま手元にあったキュビズム展のフライヤーの絵を指して、私は聞きました。
「じゃあこの絵は余白ある?」
「余白なんか全然ないやろ」
「この部分は何も描かれてないけど、余白じゃないんや?」
「描かれてるやろ、描いて描いて壁を作ってるんや。キュビズムは壁や。」
「何かしら痕跡があれば余白じゃないってこと?バーバラのいう余白は、全く描いてない箇所のこと?掛軸とかによくあるような。若冲は?」
「若冲に余白なんかないやろ。あれは余白じゃなく空間や。」
「じゃあ、余白のある絵ってどんな絵?」
「長谷川等伯の松は、あれは余白で空間を表現してるとテレビなんかでは紹介されてたけどな、あれは---」
「---」
思索を深めたり、潜っていった先に触れられるような会話を、いつかできるような大人になりたいと願っていたけれど、私は22年前からなにも変わってない。ちゃらんぽらんな高校生のまま、口をついて出る言葉をそのまま投げてしまう、考えるより先に。バーバラの前では受け止めてもらえるという絶対的な安心感があるから。
社会に出て分かったことは、受け止めてくれるのは、大人だからじゃなく、バーバラだからということ。
もう二度とそんな人とは出会えないんじゃないかと思う。
愛をもってこのまま進む。